宇田川浩行(希哲館)✅ is a user on mn.kitetu.com. You can follow them or interact with them if you have an account anywhere in the fediverse.

宇田川浩行(希哲館)✅ @hiro@mn.kitetu.com

言語活動を「虚構による真実の演出」と捉える私の言語演劇論において,その活動空間である「言語劇場」の虚構性はまさに客体(オブジェクト)指向における客体の情報性に通じるものがあるのではないかと。

そして,この考え方を突き詰めていくと,私がウィトゲンシュタインの言語ゲームに対置した概念「言語演劇」(language-theatre)に突き当たるのではないか,という直観を得た。

このあたりの事って,どう概念的に整理すれば良いんだろうとずっとモヤモヤしていたのだが,客体指向で扱う「客体」を「情報客体」(information object)と説明すれば良いのではないかと今日ふと思った。情報客体だから,情報として扱えるものは直接的に扱えるし,そうでないものは間接的にしか扱えない。

客体(オブジェクト)指向って,要は「人形劇」だと私は思っているのだが,ここでいう「客体」(オブジェクト)には,そのものが実体である場合と,実体に関する情報である場合がある。例えば,「文字列」は実体だ。つまり,交度(コード)上で生成も出来るし削除も出来る。しかし,「人間」は実体ではない。それはあくまでも人間についての情報だからだ。

「権限なき root」こと foot と sudo を代替する sure(superuser request)駒手の開発秘話とかは,小話としても面白い気がするのだが,まあ後日にしよう。

今日は希哲館 Unix 拡張標準・Synx の成果についてざっと紹介しようと思っていたのだが,別の考え事をしていたら時間切れになってしまった。Cμ にしても Synx にしても,既にそれだけで面白い本が一冊書けるくらい,しまっておくには勿体ない献典(コンテンツ)なのだが……やはり時間の使い方があまり良くないのか。

そして私の人生は狂い始めた。

これがちょっとした発明品程度のものなら,適当なところに売ってそれなりの金持ちになっていただろう。しかし,この発明の真価はそんなものではない。人類史に,これ以前以後という最大の画期,「パラ・シンギュラリティ」(もう一つの特異点)をなすことも不可能ではない。

「知の肥満」とは要するに,知識の全体最適化が出来ない状態にあるということだ。この原因は,いわゆる20世紀の情報爆発によって,生身の人間が持つ情報処理能力が情報全体に対してあまりにも小さくなってしまったことにある。これを解決するには,情報処理能力を飛躍的に高める技術が要る。それを世界に先駆けて実用化したのが希哲館だ。

デルンが,知における「全体性の復権」に欠かせないものとなる。

科学と Unix 哲学の問題は根が同じなのかもしれない。全体性の無さによって知の消化が阻まれ,「知の肥満」を招いているというか。

極端に言えば,原子から全ての身近な現象を説明するようなもの。それがいかに「単純」でも,それで人は生活出来ない。

Unix 流駒手というか Unix 哲学の問題は,「遠近感」の無さにあるのかもしれない。近さと遠さ……言い換えれば,人間にとっての「重要性」を上手く捉えることが出来ていない。

なぜ Unix 流駒手がこんな設計になっているのか。考えられるのは,(1) 古い時代に確立された文化で,単に設計思想が洗練されていなかったから。(2)確立した時代に比べて求められる機能がはるかに複雑化しているから。(3)命名規約が存在せず,多量の駒手を整理することが事実上不可能だから……などなど。

もちろん,小さな駒手を組み合わせて目的を実現するという慣習にも利点はある。原理が明確であれば応用も利かせやすい。問題は,現実として各駒手の設計に一貫性が無いこともあって,ただの「呪文」になってしまっているということ。

Unix 流駒手では,何かを実現したい時に,この駒手とこの駒手を組み合わせて……というような「定石」がそのまま残っていることが多いのだが,実は,その目的を最小の記述で実現出来る駒手を作った方が良いのではないかと思っている。意図の明確化という意味でも抽象化という意味でも。

Unix 流駒手(コマンド)の設計について覚える違和感は,「単機能」にこだわり過ぎてかえって複雑化しているということ。これは論組(プログラミング)における「凝集」ともちょっと違って見える。例えば,何かと何かを組み合わせることも,それだけに集中していればそれは一つの機能と言えるのだが,Unix 流駒手にはそれが欠けている。その組み合わせを一々記述している感じ。

例えば,希求主義には『パーフェクト・ワールド』や『グッド・ウィル・ハンティング』,情報機関としての希哲館には『ミッション:インポッシブル』の影響があるし,虎哲の Unix 指向や映画的なイメージは『ジュラシック・パーク』から始まっている。

ということはつまり,希哲館事業そのものがある意味『スタンド・バイ・ミー』的な世界観の影響を受けているということになる。もっとも,私は幼少期からアメリカ映画の影響を強く受けているのでこの作品に限ったことではない。

最近『スタンド・バイ・ミー』が再注目されているが,映画『スタンド・バイ・ミー』というか,リヴァー・フェニックスは私の青春像だった。どちらかというと『旅立ちの時』の方に強い影響を受けたのだが。